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歴史

●寄稿 武術天然理心流について  小島 政孝先生

●寄稿 新選組の天然理心流は赤誠剣  釣 洋一先生

●天然理心流の系図

武術天然理心流について

小島資料館館長 小島 政孝

 天然理心流は、近藤内蔵之助長裕が、寛政初期に創始した武術の流儀で、剣術、柔術、棒術を含めた、総合武術である。二代宗家を継いだ近藤三助方昌は、多摩郡戸吹村(八王子市)の名主坂本家に生まれたが、武術に優れていた。内蔵之助は、亡くなる直前に坂本三助を枕元に呼び寄せ、人払いを命じて気術(正確な術名は伝わっていない)の奥儀を伝授したという。文化四年十月十六日で享年は不明。三助は、以後流儀を継承し門人は千五百人を数えたという。気術は、理心流の最高峰の極意であるが、三助が文政二年四月二十六日に多摩郡相原村(町田市)に出張中に四十六歳で急死したために、この術は絶えてしまった。三助の有力門人は多くいたが、三助の継承者は育っていなかった。このため、内蔵之助の高弟小幡万兵衛が三術指南免許を得ていたため、三助に代わって指導した。その結果、八王子千人同心増田蔵六が小幡から三術指南免許を得た。増田を中心に八王子方面は、宮岡三八、松ア正作、井滝伊勢五郎らの弟弟子が育った。桑原英助と漆原権左衛門も小幡から指導を受けている。桑原は御家人と考えられるが、その出自は不明である。門人に、相模国の門人が多い。桑原の門人小野田東市は御家人で、神奈川奉行所の支配勘定格定番取締役より頭取となり、慶応二年五月には、講武所の剣術師範役になった。講武所の剣術師範役は、錚々たる人物が就任しており、天然理心流も天下に公認されたことになる。
 近藤周助は、三代目宗家といわれているが、資料から類推するとその立場にない。周助の資料は少なく、彼の伝系を伝えるものはない。「島崎家家譜」からみると、三代宗家を継ぐものがいないので、周助が自ら継いだということになる。周助は、経営感覚にもすぐれ、多摩地区の有力名主層を門人に獲得し、その門人も千二百人を数えたという。周助が、宗家三代目でない理由は、松ア和多五郎の奉納額にある。安政七年三月に牛沼山王社(秋川神明社)に奉納された扁額は現存する。その扁額には、近藤周助の名がない。三代目の位置には、増田蔵六の名があり、八王子方面では、増田がその地位にあったことを示している。三助は、後継者を指名する前に没したので、増田蔵六、桑原英助、近藤周助の三人がそれぞれの地域で、三代目として活躍することになった。
 松ア正作の後を継いだのが、松ア和多五郎で後継者は五人いる。大西政十、楠正重、秋間桂三、町田克敬、井上才市である。井上才市は、松ア和多五郎の晩年の門人で、明治十五年八月に入門した。和多五郎は、二十二年二月に病没したから、井上が和多五郎から剣術を習った期間は六年六ヶ月である。和多五郎没後に、井上を指導したのは、年齢的にみると、川口村の楠正重と考えられる。井上は心武館を開き剣術を教えた。彼の神文帳によると、百七十二名の門人がいた。井上は五十一歳になった大正二年十一月二十三日に拝島大師に天然理心流の扁額を奉納した。三多摩の同流の師範では、近藤勇五郎、原田亀吉が招かれている。井上は昭和十年三月十七日に七十三歳で没した。剣術を習うには、足腰がしっかりしていなくてはいけない。これを鍛えるには、坂道を駆け上るのが一番よいといって、坂道を駆け上る名人であったという。
 このたび、井上才市の系譜を引き継ぐ、大塚篤師範が、九十八年目に拝島大師に奉納額を掲額された快挙に心よりお祝い申し上げる。

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新選組の天然理心流は赤誠剣

歴史作家 釣 洋一

 剣光一閃――。
 雷鳴轟くがごとく、一夜にして「新選組」の名を知らしめた池田屋騒動の斬込みは、正に日本武闘史の白眉である。
 池田屋で密議をこらす西国浪士たちの真っ直中へ、新選組局長近藤勇が先鋒となって沖田総司、永倉新八に藤堂平助、さらには谷萬太郎の四人を従えての斬込みであった。 
 近藤勇は天然理心流の四代目宗家であり、若輩ながら沖田総司は同門の塾頭であった。
 永倉新八は神道無念流で藤堂平助は北辰一刀流、谷萬太郎は種田流槍術の使い手である。
 ところで永倉新八と藤堂平助は天然理心流試衛館の食客だったということで、新選組の剣は天然理心流の代名詞として喧伝された。しかし、新選組の剣は尊王の志士を斬った殺人剣として蔑まれてきた。新選組の剣は覇道の剣、つまり、天然理心流の剣は邪悪の剣ということだが、決してそのようなことはない。その邪剣とは、武市半平太を首領とする土佐勤王党の暗殺剣をおいて外にはない。
 新選組の剣は近藤勇の剣、すなわち天然理心流の剣である。尊王攘夷に始まった近藤勇の思想は尊王敬幕の精神によって日本が一つになって夷敵に当るべきこととして公武合体論となり、やがては大政奉還まで取り込もうとする姿勢で分かるように、正義を模索する赤誠一途の剣だった。言いかえれば王道の剣ということになる。
 武市半平太の思想は兎も角、政権奪取のために岡田以蔵や田中新兵衛に血刃を振るわせたことは、どんな理由をつけても正義の剣とは言い難い邪剣である。
 幕末の邪剣とは新選組に非ず――土佐勤王党の暗殺剣にある。
 剣を学ぶ者にとって肝要なのは、技術の習得は勿論だが、それ以上に精神鍛錬に重きを為して、人間構成を築くことにある。
 中里介山の『大菩薩峠』の一節ではないが、
 「剣を学ばん者は先ず心を学べ、心正しからざれば剣また正しからず」
 この金言こそは、すべての武道における理念である。
 新選組における近藤勇の剣法は、この理念に培われた赤誠王道の剣であり、その同志は前述のように池田屋への斬込み勇士の外、土方歳三、山南敬助、井上源三郎、宮川信吉、小川一作、大谷勇雄、横倉甚五郎、中島登など多士済々である。人斬り鍬次郎の異名で知られる大石鍬次郎は、小野派一刀流で天然理心流を佐藤彦五郎に習ったというのは誤り。
 しかし、近藤勇の天然理心流宗家の試衛館剣法は、継承者がないままに断絶した。
 近藤の一粒種であるタマの入り婿となった勇五郎の撥雲館は、残念ながら勇の試衛館剣法とは別もので、新規に始めた天然理心流である。
 その点、心武館の天然理心流は近藤内蔵之助に始まって、近藤三助―松ア正作―松ア和多五郎―井上才市―井上昌作―井上義雄―大塚篤と現代まで続いている。
 井上才市の心武館四代目大塚篤は、流祖近藤内蔵之助から数えて八代目になるのだが、現在、三百人の門人を抱える大塚篤こそ、天然理心流中興の祖として称えられるべき人物と思う。しかも、大塚館長を支える塾頭の高鳥天真と藤田英美の下で励む門人たちの中には、近藤勇が上京した中山道の足跡を追って、嘗ての日程通りに十六日間で完歩した女剣士があり、それをサポートした素晴らしい門人たちが群れを為す心武館の面々を見ていると、近藤勇の精神をも取り込もうとする門人たちの姿に感動すら覚える。
 心武館の創始者である井上才市が大正二年に、天然理心流の扁額を拝島大師に奉納して九十八年目の今年十一月二十三日、同所に心武館々長の大塚篤が奉納額を掲げたことは誠に慶賀に堪えない。心よりお祝い申し上げる。

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系図

天然理心流の系図です。
主要な師範を掲載しておりますが、実際には師範だけでも他にまだ多数いました。

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